「愛情」と「つらさ」



「愛情」も「つらさ」も、
大抵の人間に備わった感情である。


このふたつのうち、「愛情」は特に頻繁に特別視され、尊ばれている。大概の人間の基盤はここからできるものであるし、その理由は納得するに値すると思う。
時折、薄汚れた愛情も存在するがそんな愛情にも美しい部分を見出して崇拝し依存するのが人間であると思う。少なくとも過去の私はそうであった。


もうひとつの「つらさ」も、人によりその原因や心に占める割合は大小さまざまだろうが、誰しもに存在するものであると思う。
この「つらさ」が心に大きく幅をとって、未熟さ故にどうにも処理できないままにメンヘラは生まれるのであろう。


可愛さ余って憎さ百倍、愛しく思う気持ちが憎しみに転じて人を傷つけることはままあることだけれど、つらいという気持ちは何に転ずることもなく、大きくなればなるほどストレートに人を傷つける。

それ故に愛情とつらさは本来差別されるべきものではないはずで、
愛情は誰しもにある尊いものだから大切だけどつらさって誰にでもあることだしあなただけじゃないから気にするな、なんて理論は大元から間違いでおかしいのである。

誰しもが持っているからこそ、人は人が持つ愛情に対してどんな形であれ一応の共感を見ることができるわけであるから、同じく誰しもが持っているつらさだって、原因にまでは共感できずとも、そういう気持ちそのものには共感できるはずなのではないか?

それなのに、「つらさ」に対する他者からの反応は冷たい。
たぶん大元の感情や出来事を共有するのが愛情より難しいというのがあるのだろうが、それにしたって冷たすぎる。
体に免疫があるように精神にも免疫はあるだろうし、精神の免疫は体のそれよりずっと個人差があって歪みやすいものだと思う。
それに対する意識や配慮が致命的に欠けているから、極端なことを言えばメンヘラの周りの人間はその気持ちを理解することもできないし、何を言われても役に立つ気の利いた言葉のひとつも言えやしない。

いきなり自分の話になるが、中学のころ、同級生にリスカしている子がいると話題になったことがあった。(私ではない)
その話を受けて、その時の友人が言った「死にたい奴はさっさと死ねばいい」という言葉が今でも忘れられない。

中学生という幼い年代のころの話ではあるが、「死にたい」とか「つらい」という気持ちからくる自傷行為への理解がまるでないのだ。
この同級生のメンタリティは今も変わっていないと思う。

言葉を借りれば、「死にたい奴はさっさと死ねばいい」と思っているやつは永遠にそう思っていればいいが、そう思うからと言って死にたい人にそういうことを言うのはやめてほしい。

それから本題に戻れば、誰しもが持っている愛情とつらさ、いずれも差別せず、同等とはいかずともつらさをもっと理解して、誰にでもあるから気にするなと言える程度のものとそうでないものを見分けて欲しい。
誰にでもあることであってもその時つらいものはつらい。
誰にでもあることであっても、何人目の恋人であっても、愛しさが変わらないのと同じだろう。



こんなところでこんな拙い文章で訴えても、「つらいのはみんな同じ」などという戯言を吐く奴らに届かないのはわかっている。
これが読まれたところで理解もされないであろうが、一部の心ある方々に理解して頂ければ幸いである。