独身最後の日、多様性について考える
みる
そんな独身最後の日、日本では、来たる9月14日の総裁選への出馬を表明した岸田文雄氏の夫婦写真に対し違和感を覚えたとする記者の記事が話題になっている。食卓に座る岸田氏の傍らに奥さんが立っている写真である。
私がこの写真を見たのは、その記事が初めてだったが、全くもって違和感はなかった。
強いて言えばこれから食事をするというのに、岸田氏がマスクをしている、というかそもそも家の中なのに、2人ともがマスクをしていて、その点はちょっと違和感を覚えるかも?という程度だった。
記事の中では、「これから、ジェンダー問題後進国でもある日本を背負っていこうという人が、こんな時代錯誤の写真をあげていていいのか? もう少し違った視点も持って欲しい」みたいなことを言っている。
これを受けて、私は少し考えた。
この人の言うことも一理あるのかもしれないぞ、と思ったからだ。
そして考えた結果、やっぱり理解できないな、という結論に達した。
例えばこれが、何かのポスターだったりして、「これこそが夫婦のあるべき形です!」と言っている(と誤解される)ようなものであれば、記事で言われていたようなことも理解できる。
けれど、これはあくまで「岸田さんちのひとコマ」というものに過ぎないのではないか?
岸田氏は、その写真に「妻が上京してきて食事を作ってくれた。ありがたい」(要約)と添えている。
何も、日本の家庭はこうあるべき!とか言ってるわけでは全くない。
この写真と岸田氏のツイートからは「岸田さんのおうちでは、ご夫婦はこんな感じなんだな。」ということしか読み取れない。
さて、2020年、元号も令和に変わって、日本では「多様性を認める」ということが叫ばれ、必要とされてきていると感じる。
この「多様性を認める」という概念について、多少誤解している人がいるのでは?と私は常々感じていて、今回の岸田氏の投稿を批判する記事にも同じことを思った。
「多様性を認める」ということを、「全く新しい価値観を、ひとりひとりが持つこと、そしてそれを認め合うこと」と思っている人が多い気がするのだ。しかも時にはその際に、古い価値観は捨て去るべき!という主張もセットになってくる。
しかしそれでは多様性を認められていない。なぜなら古い価値観を認めていないから。それではこれまでと変わらない、ただ古い価値観が新しい価値観にすげ替えられただけである。
正しく「多様性を認める」ということは、「これまでの価値観に加えて、様々な新しい価値観も認め、選択肢を増やしてもっと自由になれるようにする」ということだろう。
それなのに、単なる古い価値観の排除を「多様性を認める」と誤解している人のなんと多いことかと、私は思うのだ。
ここで岸田氏の写真の話に戻るが、この家庭内のひとコマを切り取ったに過ぎない写真に、ジェンダーだの性別による分担だのという言葉を投げかけるのは、無粋だし単なるいちゃもんでしかない。
岸田氏の奥様が本当はあんなことをしたくないのに、岸田氏に命令されているとかならまた別だが、写真のみではそこまで読み取れない。
ご夫婦が共に望む形があの写真に詰まっているかもしれない、それこそがふたりの決めた選択肢かもしれないのに、それをとやかく言うのは、多様性を認められていないことと同義だろう。
そして、私自身の話に立ち返ると、私は常々、それこそ少し古いような「男性を立てる」「数歩後ろを歩く気持ちで」という調子でやってきた。
実を言えばそれは外面的な話であって、家の中に入ってしまえば、私の天下のようになっているけれど、その全てひっくるめて、私の選んだ価値観、選択肢である。
全く新しくはないけれど、それを選ぶこともまた、自由であり、多様性の中のひとつなのだ。
そんな私だから、写真への批判にこそ違和感を覚えたのだ、というのが、しばらく考えてみての結論だった。
と、ここまで考えてみて、記事にあった主張もまた、多様性の一部だよな、というところにまで至った。
このままでは一生終わらないので、ここで終わりにしようと思う。